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逗子新宿二丁目整体院 お客様の声や日常の出来事を掲載しています。

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  • 2020.11.17

     

    80歳を過ぎてもマスターベーションやりますか? Yes.Of course(*^。^*)

    逗子は海山に囲まれて気候も温暖で、自由でのんびりまったり暮らすのにもってこいの街だから、コロナ渦の今、都会から逗子に
    移住したい人がどんどん増えていると聞いています。

    逗子は、昔から多くの著名人が暮らした…それだけの魅力がある街です。石原慎太郎さん家族が住んでいたのは皆さんもご存じの方多いと思います。今ここで、逗子にゆかりのある著名人の名前を挙げればきりがないからやめときますけど。

    僕の治療院の建物も、実は昔、東郷平八郎元帥が日露戦争に勝利した際のご褒美として政府から贈られた土地に建っています。なので、今僕が整体の仕事しているこの場所で、東郷さんがここでお茶しながら恋人と語り合ってたかも知れないしね(#^.^#)

    そんな逗子なので…当院にもそれぞれの道で大変ご活躍の方が数名来院されています。ごひいき賜りまして誠に有難うございます。

    今日の話は、当院ご用達のT先生という日本屈指の詩人・作家の先生(ネットで検索すると芥川賞受賞候補と出てきます) との会話からの話です。先生は、今は亡き三島由紀夫さんと生前に仲良しだった方で、美輪明宏さんや瀬戸内寂聴さんとも親交があります。今年は三島由紀夫さんの没後50年ということで、T先生のところには取材の依頼がしょっちゅう来ていて、とても忙しいみたい。

    そんなT先生と施術中にいろんな話をします。健康についての話、運動、食事の話…あとそれに加えて「人生」とか「恋愛」とか「老い」についてもお互いの思いや思考を語ったりします。哲学的な話に至ることもしばしば。

    そのT先生に昨日…「先生すごく興味があることなので一つ聞いていいですか…マスターベーションとかしますか?」って聞いたんですよね、僕が。
    そしたら先生は…「もちろんですよ。十日に一回は出さないとおかしくなっちゃいますからね人間」って仰いました。

    あ、そうなんだ❣ 大作家の先生でも…80歳overであっても…ちゃんと性欲バリバリあるじゃんって。僕はそれだけどとっても嬉しくなっちゃいました。

     …そういえば確か加山雄三さんのお父さんは80歳でこどもつくった方じゃなかったっけ?

    皆さんは人間の「3大欲求」をご存じですよね。「食欲」・「性欲」・「睡眠欲」です。これらは人が生きている限り常に求め続けている欲求です。
    T先生も僕も「人生100歳越え思考」なので、「老い」の二文字を嫌います。なので敢えて聞いてみたんです「マスターベーションは?」って。

    以前もT先生と恋愛論を交わした時に仰ってました。「僕も20代の女性に恋することがありますよ」って。でも恋をしたからと言って、その若い女性に何をするわけでもないし。ただ、人を想う気持ちとか好きになる心は自由だから、それも大いにいいんじゃないっていう感覚で、僕も先生と一致しました。

    若い頃の恋愛とは、もしかしたら若干違っているのかいないのかよくわからないけど…とにかく「恋愛」って一生ものですよねと結論付けました。

    恋をすると人は元気になり、男性は逞しく女性は美しくなっていきます。伴って健康度もアップ。だから(長生きしたけりゃ)いくつになっても恋をしましょうと。

     

    僕は10/22の自身のブログにも書いたように、一度結婚した女性と20年連れ添ったのちに離婚しました。だから今、独身ではあるのですが、あまり寂しくありません。
    …時々寂しい時もあるけど🤣 結婚と恋愛は同じライン上にあってもおかしくないけど、根本的には違うような気がしています。

    コイバナ(恋愛話)を語れば時間がいくらあっても足りないから…今日はこのあたりで締めまーす☺

    いくつになっても自然体で自由な心を持って、自身に正直に生きていきたい。

    いやいや…今現在、僕自身そうやって生きてるでしょ(*^。^*)

    チャンチャンみたいなエンディングとなりました。

     

    今日も最後まで僕のブログ読んでいただいて有難うございましたm(_ _)m

     

     

  • 2020.11.11

     

    前回11/5のブログからの続きです(^^)/

    最初の勤務先(壮快カイロプラクティック)を3カ月でクビになった僕は、やっとの思いで「逗子整体院」に雇ってもらえることになりました。

    その時僕はまだ専門学院の1年生だったので、住まいの(品川区)戸越から朝6時台の電車で逗子へ。8時~夕方5時まで勤務したのち、そのまんま五反田の学院(大川カイロプラクティック専門学院)の夜学を受講。家に帰り着くのは夜の10時半頃。そんな感じで、戸越~逗子~五反田の3か所を往復する生活でした。学院の講義の後には毎回テストがあったので、毎日電車の中で必死に解剖学を勉強していました。52歳~53歳にかけて…まあ自分でもよく頑張ったんじゃないかと思います。でもやらないと先に進めなかったから(;^ω^)

     

    ところがですよ…僕を

    一発採用してくれた凄腕の田中院長は、その1か月後にお父さんの身体の具合が悪いという理由で副院長の五味先生と二人一緒に退職してしまったんです。
    愕然としました。Why? because…僕らは田中院長の高い技術を学びたかったから。なのに残ったのは学院卒業したばかりの吉田さんと同期の加藤さん、内藤さんと僕の4人だけになってしまいました。

    この後、治療技術をどうやって学ぶか?ってなるわけ。大川学長の判断で、院長に吉田さんが就任して、あとの3人がシフト制でスタッフを務めることになりました。

    経営は学院本部からの指導もあったのでなんとか切り盛りできていましたが、治療技術に関してはめちゃくちゃ餓えていました。患者さんを施術するにも内心は半信半疑の技術を試行錯誤しながら駆使して向き合っていた毎日でした。療院としてはレベル低かったし、勉強ができる環境ではないと認識していました。

    「ここは自分が長く勤める場所ではない」と…学院の授業がそろそろ終わるその年の秋…僕は「逗子整体院」を退職しました。

    そして鹿児島の同級生(渡辺信一郎君)から誘われていた出張専門の整体屋みたいな事業を起業するチームに参戦しました。メンバーは、僕と渡辺君ともう一人、木村先生という鍼灸師の3人でスタート。ゆくゆくは会社にしようと目論んで始めました。住居も戸越から亀戸に引っ越しました。 

     

    ところがどっこい今度は、スタートして3か月後に木村先生の奥さんが乳癌を患ってしまって…この事業もたったの3カ月でシャットダウンでした( ゚Д゚)

    再び無職となった僕は途方に暮れてしまいました。…この時は鹿児島に帰ることを真剣に考えたりして、姉と兄にに相談しました。

     

    そんな落ち込んでいた矢先、僕に仕事(修業の場)を提供してくれたあるビッグな先生との出会いがありました。当時、日本ではまだそれほど多く存在していなかったDC(米国公認のドクターオブ・カイロプラクティック)の称号を持つ山根悟先生です。アメリカのナショナルカイロプラクティック大学卒業後、日本にカイロを広めた一人者です。掲載した写真が山根悟先生です。

     

    以前、僕は山根先生が経営していた四谷の「山根カイロプラクティック研究所」に出向いて「僕の手技を受けてもらえませんか」といきなり売り込みにいったことがありました。その時、山根先生から「なかなかいいんじゃない。僕が経営する整骨院で働かない?」と言っていただいていました。

    僕はもう「ここしかない」と、すがる思いで山根先生のグループに飛び込みました。「山根先生、有難うございます。一生懸命頑張りますので何卒宜しくお願いしますm(_ _)m」と。

    山根グループは当時、駒込~堀船~小台周辺に数か所の整骨院を経営されていて、僕はその中の三院を転任して勤務。約3年半ほどお世話になりました。
    上京していろんな現場を出入りした僕でしたが、結果、ここでの3年半が治療家として修業した最も勉強になった最後の砦になりました。

     

    当時の生活は、朝から晩まで院に詰めて仕事。休みの日はイヤホンで東京FMを聴きながら荒川の土手をランニングするのが楽しみなくらいで、あとは買い物と家事で一日が終わる。そんな毎日の繰り返しでした。恋愛も娯楽も何もなく、ただひたすら治療家としての修業です。それでもたまに山根グループの飲み会があったり、社員旅行で一度だけ韓国にも連れて行ってもらったことがありました。お給料は20万円そこそこでしたが、修業ってそんなものです。お給料頂いて現場経験を積めるんだから有難いもんですよ。常に未来を見据えていたからこそ頑張れたんだと思っています。

     

    ここでもたくさん失敗しました。大きい声では言えないけど…患者さんを2度ベッドから落としてしまいました。施術を誤って高齢患者さんの肋骨を折ってしまいました。 それらの失敗の全てを山根先生がケツを拭ってくれました。菓子折りもって一緒に謝りに出向いてくれました。

    最終勤務先は北区・滝野川に当時あった、「もみじ整骨院」でした。僕の娘と同世代の山根先生の息子・章氏が院長を務める院です。章院長にも相当ご迷惑かけしましたが、大変お世話になりました。山根先生と章院長、そして奥様の真由美さんと山根グループのスタッフの先生方には本当に感謝しています。足手まといにしかならなかったであろうこのような変なおじさんをよくここまで面倒見てくれて…本当に有難うございました。めちゃめちゃ感謝しています。

     

    遊びにも行かずコツコツと貯めたお金で独立開業を思い立ってから、逗子に整体院を構えるまで、それほど多くの時間を要さなかったと記憶しています。

    以前、「逗子整体院」に勤めた時に、逗子と葉山を隅々までくまなくポスティングして回ったおかげで、逗子の街を知り、逗子が大好きになっていって…「いつの日か…開業するなら逗子で」と決めていました。だから逗子海岸のすぐ近くに今の物件が出た時には即決でした。

    現在の「逗子新宿二丁目整体院」をオープンしたのが57歳の夏。今、開業以来6年が経って、月の売り上げも修業期の5倍程は稼げるようになって経営も安定しています。整体を通して患者さんが笑顔になってくれるのが嬉しい仕事です。逗子の街も海も、益々大好きです。住めば住むほどに…逗子は僕にとって素敵なオアシスみたいな居場所になっています。

     

     

    これから先も、重光裕行はもっともっと成長して、地域のため、自身のため、家族・友達のために貢献して…死ぬ直前まで元気に楽しんで生きていきますので宜しくお願いします(^_-)-☆

     

    今回もまた、長文になりましたが最後まで読んでいただいて有難うございましたm(_ _)m

     

     

     

     

  • 2020.11.5

    http://www.ok-cp.com/

    前回…10/22のブログからの続きで…離婚と同時に前職の二宮育美幼稚園経営を辞めてから逗子に整体院を構えるまでの10年ちょっとの記録です。

    出来るだけ端折って書くつもりですが、とにかく書いてみますね(;^_^A

     

    離婚、離職した僕は故郷の鹿児島の実家(と言っても両親は他界して誰も住んでいない一軒家なのですが)に帰りました。一旦ここで人生をリセットしようということでのびのびと暮らしました。生活費は幼稚園で体操教室などで稼いだお金がそこそこあったので、就職はしないで、遊んで暮らしているようなもんでした。

    まあでもその間にパソコンも使えるようになったし、シャバを客観的に見るには良い機会となりました。

     

    そんなある日、以前勤めていた垂水市の水の上小学校の養護教諭だった大山ひとみ先生から、「重光先生! 私、小学校を退職した後にカイロプラクティックの仕事をやっているんだけど、重光先生は体操の先生だから人の身体とか健康について興味あるんじゃない?よかったら一緒にやってみない?」っていうお誘いを受けました。

     

    ひとみ先生は、「日本カイロプラクティック連合会」という団体に所属していて、その団体の鹿児島支部の副支部長を務めていました。そろそろ就職したかった僕はその提案に乗っかりました。ひとみ先生が言うようにこの整体という業種は人さまの身体を整えて健康にする仕事なので、僕はとても興味を持ちました。実際、やってみると、すんなり入っていきました。技術職なので理論はもとよりテクニックのお勉強が多かったので楽しかったです。最初は。

     

    何故「最初は」…なのかというと、この組織(日本カイロプラクティック連合会)は、ネットワークビジネスの仕組みで一般の人をセミナーに誘って、更にクライエントさんを相手に、「歪みをとる」などとうたって健康まくらやマットレスなどのgoodsを販売して利益を得るみたいな。そんな団体でした。

    これは僕の性にあっていないと思ったので半年ほどで退会。ちゃんとした学校で整体の勉強しようと決めました。鹿児島にもいくつか専門学校があったけど、東京の方がたくさん学べそうだし、この際人生の再出発と決めて上京しちゃおうというノリで上京。 東京の五反田にあった「大川カイロプラクティック専門学院」に入学しました。品川区の戸越にアパートを借りて。その時僕は既に52歳だったでしょうか…いい歳こいたおっさんですよおっさん🤣

    そこでは学院に通いながら、OBが経営する整体院などで実践を兼ねたアルバイトができたので、低賃金ではあるものの、学びながらお金がもらえるという駆け出しとしては有難い境遇だと感じていました。

     

    最初に僕が奉公させていただいたのが江東区・門前仲町にある「壮快カイロプラクティック」という大川学院のOBの松本斉院長が経営する整体院でした。

    既にスタッフが4人ほどいましたが、僕が最年長者でした💦 まあでもそんなことは最初から承知で来ているから「そんなのかんけいな~い。おっぱっぴ~」みたいな感じでした。技術の習得もそこそこ速かったったと記憶しています。就任3カ月目には箕輪にある分院を週に一回でしたが僕一人で任せてもらえるまでになっていました。

     

    この時の慢心というかおごった気持ちが、その後の僕をドツボに突き落としたんですよね~…あ~れ~( ゚Д゚)ってな感じで転げ落ちていってしまいました。

     

    箕輪の分院を任されたある日のこと…日が暮れて、そろそろ終了作業にかかろうとしていた時に、汚れた身なりの青年が身体をくの字に曲げて来院。

    「仕事で腰を痛めちゃったんですけど診てもらえませんか?」と言うんですね。確かビルメンテナンスの仕事帰りでした。

     

    僕は心の中で「やった!新患だ。治しちゃおう」と思って、喜び勇んで施術に臨みました。 結果、見事に痛みが軽減して、更に次回予約まで頂いたので、僕はもう

    ルンルン気分でした。「褒めてもらえるぞ」みたいな。

     

    で、その日の報告で院長にその時の状況を一部始終報告しました。自分的には「てがら」だと勘違いしてたんですね。

    僕は大きな過ちを犯していたのです。 規則を破ったのです。分院での業務下では「新規の患者は診てはいけない」という院長からのルールに違反したのでした。

     

    そのルールは勿論知ってはいました。僕の中では「辛い症状の患者さんを助ける為なんだから」という安易な考えから、例外として許してもらえそうな予感みたいなのがあって。でも後でよくよく考えると、駆け出しの僕が新規の患者を下手に治療して失敗したら院の責任問題になるわけですよ。だからこのルールは当然のものなわけです。

     

    …それから数日後、着任3カ月目にして、僕は壮快カイロプラクティックをクビになりました。鼻からギューニュー((+_+))  

    松本院長には、ご恩を仇で返したような結果になってしまって本当に申し訳ない気持ちでした。

     

     

    さあ、ここからが大変でした。次の修業(アルバイト先)の場を見つけなければなりません。大川学院OBの院を数か所訪ねて面接・実技試験受けて回りました。

    どこもかしこも不合格です。年齢もその理由の一つだったのでしょうが…なんせ壮快をクビになった輩なので、(もし自分が院長だったとしても)雇わないでしょ。普通。

     

    武蔵小山のOBの院では僕を2週間仮採用してくれたものの、僕よりも若い新規スタッフが転がり込んできたものだから、僕はその時点で不採用になりました。その時はお給料0円でした(泣)

     

    こんな感じで無給ジプシー生活が1カ月くらい続いたでしょうか? 

     

    そんな矢先、神奈川県の逗子という街の「逗子整体院」がスタッフを募集しているという情報を得ました。

    当時、この逗子整体院には田中院長という強面で超厳しい院長がいらっしゃると聞いてはいたものの、そんなことでビビってる場合じゃないと思って。

     

    九州から状況してきたばかりの僕にとっては、それまで聞いたこともなかった街に🚃で1時間かけて面接に出向きました。

     

    玄関を開けて中に入ると、奥の方から(噂の)田中院長が出ていらして、ニコっと笑みを浮かべて僕を中に通してくれました。

    僕は、壮快をクビになったいきさつも含めて全て正直に話しました。

     

    そしたら田中院長は「ほう…それは大した度胸じゃないの。うちでやってみる?」と言って採用してくださったのです。

    わーい(((o(*゚▽゚*)o))) ヤッターという…こんな流れで僕は生まれて初めて「逗子」という街を知ることになったわけですけど。

     

     

    今日も最後まで読んでいただいて有難うございましたm(_ _)m

     

    尚、この続きは次回…11/11発信のブログにて公開しました(^_-)-☆

     

     

     

  • 2020.10.22

     

    7/30のブログからの続きを書きます。

    鹿児島の垂水小学校を退職した僕は、神奈川県中郡二宮町にある学校法人二宮育美幼稚園に就職しました。学生時代に幼稚園~高校までの教員免許は取得していたからそれが活きました。

    ここは当時の僕の妻の両親が経営していた園です。僕が入った当時(平成2年)は、園児数100人ほどの小規模な幼稚園でした。山の斜面を利用して園舎が建っていて、周囲を緑に囲まれていて、立地は幼児教育にもってこいの環境でした。

    前職の小学校の現場で心が疲れ切っていた僕でしたが…ここの自然に囲まれた環境と、何より職場が替わったことで、徐々に本来の元気な自分に戻っている感覚がありました。

    園児送迎バスが1台ありました。担任は持っていなかったです。出来るだけ子供達や保護者の方と触れ合う機会を多く持とうと、大型免許を取得して園児の送迎をやりました。園庭や裏山、プール等の環境整備、そして園児との体育的な活動で関わっていきました。

    毎月一回発行の園だよりや各お知らせなどの通知書も僕が担当しました。

    すっかり元気を取り戻した僕は、「この環境でこの園児数ではもったいない。もっとたくさんの子供達に育美幼稚園を知ってもらいたい」と思うようになりました。

    どうしたら園児数を増やせるか? そう。集客です集客。

    思い付いたのはDM。ダイレクトメールをばら撒いて未就学園児を呼び込もう作戦です。

    ノウハウは…近隣の市町の役場に出向いて住所録を閲覧してノートに書き写す作業から始めました。

    当時はまだ個人情報保護法なんていうのが無かった時代で…役場の住民課では、監視付きではあるものの住民台帳の閲覧が出来たんですよね。生年月日を次年度入学可能児に特定してチェックして手書きで書き写しました。閲覧料を一件につき200円くらい払ってね。

    二宮の近隣の市町というと、大磯町、中井町、秦野市、小田原市です。

    そうとうな数だけど、頑張ってせっせとダイレクトメール作りました。ターゲットを絞り込んで、そのお宅に直接幼稚園の案内書が届く仕組みを作って実践したという話です。

    案内書の中には園の特色として

    ①自然に囲まれた環境

    ②広い園庭と大型プール

    ③小学校教諭経験のある体育系の先生がいる幼稚園

    確かこの3つを売りにした文章と写真を入れて「いつでも園に見学を兼ねて遊びにいらしてください」とうたった内容でした。

    作戦は見事に的を得て…大成功でした。DM発送直後から、問い合わせの電話がどんどん入ってきました。

    そして親子連れで園見学に来てくれました。園内の案内役は僕が買って出ました。元々人懐っこい性格だから、こういうの得意だったかも🤣

    翌年から新入園児が少しずつ増えていって…僕が入って3年後には、200人を超えて二宮町で園児数が一番多い幼稚園に成長することが出来ました。

    園の教育・行事でも男性教諭らしいというか重光らしさをどんどん出していきました。

    運動会ではバク転も切るし体操の模範演技なんか見せちゃうから子供達も保護者も大盛り上がりです。

    「おやじの会」を立ち上げて、園行事その他で父親と一緒に活動しました。例えば運動会の準備や餅つき、宿泊キャンプ等には積極的に協力していただきました。

    当時は本当に燃えていましたね。凄く楽しかった。やることが全て園の発展に繋がっていくのが実感できてたし。

     

    体操の経験を活かして「しげみつ体操教室」を作って園児の体力作りに一役買いました。教室からは、優秀な子供も量産しました。隣の秦野市で開催された第4回とびうお体操競技会では、中戸川葵君が金メダルとりました。

    年長さんを全員山中湖に園児バスで連れていって宿泊~山登り体験みたいなことも取り入れました。幼稚園の子供が親から離れて山中湖で合宿して山登りですよ。凄くないですか? その一部始終を悦子先生(前妻)がビデオに収めて持ち帰ってダビングして、保護者の方に観ていただくんだけど…もうその映像は涙なしには観られない代物でしたよ。

     

    これだけやってる幼稚園は他にないでしょ?っていうくらい…今考えると凄いことをやってのけたと自分でも感心します(*’ω’*)

     

    今は、僕が15年ほど前にこの幼稚園から抜けたので、悦子先生(前妻)が園長兼理事長を務めています。あと僕の長女・あゆみ先生と次女の早帆先生、そして前妻の長女(千穂先生)とその夫がチームになってたくさんの先生方に支えられながら皆さんで頑張って経営されていると聞いています。今では園児数は既に300人を超えていると思いますよ。送迎バスも大小合わせて5台くらいで回しているそうです😮

    今、正に湘南地区においては、ゆるぎないマンモス幼稚園として認知されています。

     

    この幼稚園を僕が去った理由は「離婚」です。その離婚の理由までここに書くのはタブーなので書かないけれど…決して悪事をやらかしたとか浮気とかお金の問題とかそういう理由ではないので、そこはご了承ください。あくまでも僕自身の「生き方」の選択があったまでです。

    ただ、悦子さん(現園長)はとても素敵な女性だったし経営者としても立派な人です。僕は今でも彼女を尊敬しています。

     

    当時、園への外部からの評価は「超ワイルドな重光先生と上品できめ細かな悦子先生でバランスがとれていてちょうどいい」みたいな感じでした🤣

    それがいつの間にか二人の間に、外側からは見えない溝ができてきて…それがだんだん大きくなっていきました生き方の上で、僕と彼女の相性・価値観が大きく異なったということなんです。 どちらかが悪いということではないと思います。

     

    森田公一&トップギャランの曲に「過ぎてしまえば皆美しい」という歌詞がありますが、ホントそうなのよ😊 決断とか別れとか…その時はマジ苦しいけど、時が流れて過ぎ去った後には、そこに思い出というBeautifulな映像が残る。そして人は今日(きょう)を生きる。明日に向かって生きる( ^^) _U~~

     

    僕の人生シリーズも第3話まで書き終えました。今回も長かったですね。これでも随分端折って書いたつもりです。悪しからずごめんあそばせm(__)m 

    次回は僕の人生シリーズ最後になろうかと思いますが。

    育美幼稚園を離れた僕は、50歳を目前にして一旦、故郷・鹿児島に帰ります。そしてそこ(鹿児島)で一服して(十分な休養をとって)52歳で再び上京(都へ上る)して、整体師の道を歩み始めて…現在に至るみたいな。まあ、この10年間も振り返ると、超オモローなので乞うご期待ください(^_-)-☆

     

    この続きを11/5発信のブログで公開しています。52歳からの挑戦(^_-)-☆ 

     

     
    今日も最後まで読んでくださって有難うございましたm(__)m😊

     

  • 2020.9.24

     

    (^O^)/皆さんこんにちは。今日も逗子からブログお届けしています。

    秋のお彼岸&シルバー4連休はまずまずのお天気だったけど皆さんは如何お過ごしでしたでしょうか?

     

    今日のブログは、僕が教師時代を過ごした鹿児島・垂水小学校で最後に担任した6年1組の教え子達が逗子に来てくれた話です。

    僕的には、もう前夜から夜も寝付けないくらいワクワクしていて…逢ったらもっと嬉しくて楽しくて…あっという間に7時間の時が流れていきました。

    彼らの年齢は42歳。女子の重信智美さん、男子の田中晴章(ナリアキ)君と大西隆司君の3人です。3人とも今は東京都内在住で、お仕事は2人がIT関係の会社で管理職に就いていて、もう一人はフリーランスみたいな。

    で、僕はこの3人のうちの一人が悩みを抱えていることをつい最近SNSを通じて知りました。「重光センセ、こんばんは☺ そしてお久しぶりです。垂水小初年度6年1組の卒業生でございます🙇私は高校卒業後、東京に住んでおります。先生の異変と同じ時期からおかしくなり始め、今やワーキングプアの職業についていますし、いまだに独身者でございます😰また機会があればメッセージお送りします🙇」

     

    僕が7/30のブログに教師を辞めた理由のことなども書いたので、その記事が彼の目に留まったらしくその(ブログの)コメント欄に上記のメッセージが綴られていました。

    僕は「ワッ❣○○君だ~懐かしいじゃん。うれぴー」って喜んだと同時に「えっ? なんでこの子が?」という心配な気持ち…う~( ;∀;)メチャ心配になっちゃいました。

    何故なら…この子は当時から成績優秀で、高校も鹿児島市にある某高校に特退枠で入ったと聞いていて、そのまま大学入って就職して、このくらいの歳だとバリバリ働き盛りの社会人というイメージがあったから。このギャップに驚いて。それこそ「なんでやねん?」ていう感じでした。

     

    なので、当時同じクラスだった他の二人(この二人はSNSで数年前からお友達になっていたので)にも彼の状況を話しました。二人ともやっぱびっくりして心配していました。

    そんなわけで緊急ミーティングという名目のもとに今回の同窓会を企画したという流れです。

    みんな話が決まったら集結速いわ(*^。^*) 「はい、じゃあ逗子に9/21集合ね」決定って言う感じです。

    このうち2人とは15年ほど前に、智ちゃんの結婚式に呼ばれたときに会ってはいたけど、それでも15年ぶり。悩みの彼とはそれこそ32年振りの再会ブルース(昭和だね🤣)だったので、もうサイコ! 最高の感激でした。

     

    僕は午前中は患者さんの予約入っていたので仕事して午後からcloseにして、駅に彼らを迎えに行きました。「お~○○!握手」ってな感じで、いささか照れたりしてね(;^ω^) 逗子駅バックに記念写真をパチリ! 

    そこから逗子の海岸に案内したり僕の職場を見てもらったりしてから僕の自宅🏠で🍷飲み会スタートです。

    先ずは○○君の悩みについて語ろうよってなって…本人の今の状況とか考えとか話して、そのあと他の3人がそれぞれの考えやアドバイスを彼にするわけですよ。

    その内容に関しては中略しますが、とにかく僕が強く感じたのは…①年月はこんなにも人を成長させるものかということ。②都会で暮らしていくことの楽しさの裏側にある孤独感みたいなもの。③みんなすごーく逞しい素敵な大人になっていたこと。

    特に③に関しては僕が人として惚れるほど男らしくて女らしくなっていて…あらためてみんな大好き~って思っちゃいましたね。○○君には、3人が的確過ぎるほど的確なアドバイス(僕の認識の中で)をしたので、純粋な彼は、このあときっと変わっていくと思います。少なくとも変わる勇気と「友達のありがたみ」を十二分に感じたと思います。

    そして僕は思いました。もう僕は彼らの先生なんかじゃ全くなくて「親友」なんだと。これから先の人生も共に生きていきたいと思える「親友」なんだと…今回の再会を通じて自分の認識を新たに更新しました。

     

    逗子で3人に会えてよかった。本当に良かった。(人”▽`)ありがとう☆ また集まろうね(^_-)-☆

    そしていつか鹿児島の仲間たちも一緒に同窓会やりたいね(*^。^*)

     

    今日も最後までブログ読んでくださって有難うございましたm(_ _)m